『差し押さえ』に『踏切り事故』と不運が続いても…幸福はいつも目の前に?〜『倒産から幸の芽が』〜

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それは、高校生のある日のことだった…

太鼓台、檀尻が村中を賑わした大野原祭が終わり、秋の収穫入れが始まった。

自転車を飛ばして家に帰っていた私は、家の門からピューとペダルを一踏みし、無花果(イチジク)の木の下の我が家の駐輪場へいつものように自転車を止めた。

しかし、今日は何やら家の様子がおかしい…

玄関から「ただいま!」と叫んで自分の部屋へ向かう時、いつも「おかえり」と応えてくれる母や祖母の声が無いことに、私は「あれっ?」と頭をかすめるものがあった。

私は何気なく座敷をのぞくと、異様な雰囲気に包まれている家族にハッとした。

祖母の自慢の金屏風(びょうぶ)が畳まれて、上端に小さな長方形の赤い紙が貼ってあり、床の間にも目を移すと、掛け軸にも同じ赤い紙が貼られている

家の中の空気が今まで感じたことのない殺風景な様子が広がっていた…

そんな予想外の事態に、いつもの着替えやおやつさえ忘れて、私は机の前に座り込んだ

そして、追い打ちを掛けるかのように、数日前、叔父が踏み切り事故を起こしてしまった…

『差し押さえ』に『踏切り事故』と不運が続いても、幸福はいつも目の前に❓

家を出て十数メートルのところに予讃線の無人踏切がある

その日、叔父はバイクで家を出た

その直後、下り列車が急ブレーキで止まる音に近所中が大騒ぎになった

叔父が踏切事故を起こしたのだ

幸い叔父に怪我は無かったものの、祖母は余りのショックに気を失う程だった。

その状況に追い打ちをかけるかのごとく、父から「差し押え(倒産)』の話が入ってきた

それは、商売上、古くの関係であった方より保証人を頼まれ引受けていたことが原因で、そのお店が大口の不渡りを出したため、我家で支払わねばならない、という話であった

(神様はどこまで『高い壁』を私たちに与えるのでしょうか…)

このような状況にも関わらず、祖父と祖母は『前を向いていた!』

そんな様子を見て、改めて祖父と祖母は素晴しい夫婦だと、私は内心誇りに思っていた。

どんな事態にも屈しない『幸せの世界』を持つ大切さ – 財を失っても…

幼い時、片目を失明してしまった祖母は、目の手術のため、入退院のくり返しをしていたことで、教育を十分受けられていなかったようだが、

そんな子供時代を過ごした祖母は、新婚時代には、夜な夜な「読み書き、そろばん」を祖父より教わり、学びを続けていたそうだ

(向学心のあった祖父は、伴侶の祖母がスポンジのように教養を身につけていくのが、たいへんな喜びだったといいます^^)

そんな祖父は、原野の開墾を夢見て、大正の初め頃より十勝平野で夢を叶えてきたそうだ

現地の人達にも慕われ「讃岐の仏さん」と呼ばれていたとか…

北海道からの帰讃の時には、昆布、にしん等、当地の産物を、そして香川から往く時は、讃岐三白などの商いも手掛けていったとのこと!

その一代で成した財が、今回『差し押さえ』というカタチで人手に渡る…

祖母の悲しみは測りしれなかったと、私は思うのだけれど、祖父・祖母は “強い人” だった

祖母は過日の様に失神などせず、えりを正して正座をして叔父や父の話を聞いていた。

その姿が今でも、私の心の中に鮮やかに浮かんで来ることがある

『差し押さえ』の紙が貼られた日から、毎日人の出入りが多かった我家は急にひっそりとなった

(しかし、立ち止まっていては、何も改善されません)

そんな日が数日続いた後、商売友達が叔父を訪ねて来られたり、隣村の方が母を訪ねて来られるということがあり、叔父、母は彼らとの話を通して、今後の方向性を模索し始めるようになった

そして、ある日、母は出かけて行った

「十日ほど大阪へ行ってくる!」という言葉を残して…

(母が家を空けている間のことはほとんど記憶に残っていません)

10日経つと、母は言葉通り我が家に帰ってきた

帰宅した母は『明るい人』に変身していて、大変に驚いたことを今でも覚えている

久し振りに母がいる夕食は賑やかで、美味しく、その上、お土産話に家族がみんな、魅せられていた^^

(やはり、家族とは良いものです)

真言宗の熱心な家であったのだけれど、祖母も感心したようで「そーな、そーな」とうなずいていた。

もっとびっくりしたことは、お風呂から上がった母が、神棚の下で手を合わせ、口ずさんでいる声がとても楽しそうで美しい声だったこと…

祖父は言います

 

「生まれたときは裸だ。裸が自分なのだ」

 

また、父は、

 

「海より大きな鯨は出ず。空より大きな竜は居ぬ。この世で出来たことはこの世で納まる」

 

とよく言っていた

不渡りを出した付き合いで保証人になったあの出来事への恨み事を、私ら子供たちに一切もらさない大人たちだった。

年が明けて春、大家族が分散して上阪し、未経験の工場で汗水を流す暮らしが始まった

ふと思うことがある、

一代で財を築いた祖父が急死していたら、社長の叔父が踏切事故で命を落としていたら、豪遊好きの父が戦地でマラリヤで亡くなっていたら…

命はどんな権力、金をつぎ込んでも、一度、失ってしまうと取り戻すことができない

毎日、毎年、息一筋で六十兆の細胞が一刻も休むことなく私の命を支えてくれている。

 

よろこべばその細胞が笑う!

 

腹を立てれば全身に毒が走る!!

 

不思議な命だ!

自分の意志ではどうも出来ない生かされている命。

四方八方に「ありがとう」と言いたくなる。

高校二年のあの日は、我家の幸福へのスタートだった、と思う今日この頃。

(また『大きな壁』を乗り越えたようだ!)

(引用元:HAPPY ONE Vol.252 P12-15, 執筆者:J・Kさん)

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