私の手元に日焼けした古い1枚の年賀ハガキが残っている。
それは、私は中学3年だった時に、担任の先生からもらったハガキである。
当時のクラスには50人以上の生徒がいて、私は目立たない存在であった。
しかし、そんな私の出した年賀状にも返事をくださる、優しい先生であった。
その年賀ハガキは、綺麗な字と丁寧な言葉で書かれていて、心のこもった国語の先生らしい年賀ハガキだ。
そしてそこには「ともを作りなさい」と、いつも先生が授業の中で繰り返していた言葉が書かれている。
真のともを、両手の指の数くらいは作りなさい。
当時のクラスメートはみんな、そんなこと簡単だと笑い飛ばしたものであるが、そこには「とも」と言う意味の深さを知らず、「友」つまり友達ぐらいに勘違いしていた、自分らの浅はかな考えがあったものだ。
しかし、歳をとるとともに本来の言葉の深さを再認識させられ、社会で生きていく上で、本当に重要なことだと今更ながらわかってきた。
私も、すでに50歳を超えている。
知人の中には若くして亡くなった人もいるし、年賀状等の挨拶を送っても返信のない人が、年とともに増えてきた。
挨拶程度にでも互いに近況が知らせ合えるのは、それはそれでいいと思うが、先生の言われた「とも」となると、残念ながら指が安易には開かない。
それではわずかでも開ける人がいるのかと言えば、これも情けないことで、いるにはいるが、両手には届かず、辛うじて片手が開けるくらいだ。
それも長年親しくお付き合いしていただいた方ばかりで、容易な流れでここまで続いてきたわけではない。
拙い考えではあるが、人間関係の付き合いは、自分に関係がなくなればそれで終わりではなかっただろうか…。
私自身、中学・夜学と教育を受け、社会人として勤めもしてきたが、そこで出会った関係は、年賀状等の挨拶を年に1回交わす程度の関係で、大方は過去の出来事のように消えている。
会えば必ず別れがあり、短期間の間柄でも「とも」と呼べるのかも知れないが、少なくとも頼り頼られ、お互いに信頼関係で結ばれる「とも」は、これからの人生には必要だと私は思う。
中学生活最後の、1年足らずの先生と生徒の関係ではあったが、あれほど深く、大切なことを教えて下さった先生は、他には1人もいない。
もっと顔をつき合わせて、先生の言葉を聞いておくべきだったと、今は後悔もしている。
しかし、あの言葉のおかげで、今の「とも」と呼べる人たちがいる。ありがたいことであり、幸せな事でもある。
(引用元:Happy one 11 vol.291, 執筆者:K.Oさん)
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